1978卒塾
67歳 山﨑敬史さん
塾日誌からタイムスリップ
《熱にほだされ歴史探検隊へ入隊》
私が久敬社へ入塾したのは昭和49年4月。ほぼ半世紀も前のことになります。山﨑信也現塾監とは同期生です。久敬社に保管されていた古文書・近代文書、書画・書籍等の分類作業を進めるにあたり、「手伝ってほしい」と塾監から声かけがあったのは昨年の春だったと思います。同期の信也君(同姓のため互いに名前で呼び合っていました)からの直々の依頼でしたので、新塾監として頑張っている彼の熱意に応えるためスタッフの一人に加わることにしました。
《塾日誌は民俗資料なのだ》
確かに、大学では国史学(日本史)を専攻し、古文書学の講義を受けたり、ゼミや合宿等へ参加したりの経験はありました。しかし、大学院を目指した訳でもなく、一介の学部生として程々の知識しか持ち合わせておりません。卒業以来社会科教師として歴史を教えては来ましたが、古文書に接することなど全くないままに過ごして来ました。従って、半世紀近い年月を経た今、古文書等を解読する作業は、中学の教科書に出てくる英文を訳すよりも難しいと感じているのが正直なところです。
先ず私の目にとまったのは、きれいに製本されて保管されていた「塾日誌」でした。小笠原長行((ながみち)公や長生(ながなり)公の残した文書に比べ、史料的価値はほとんど無いと言えますが、塾生活の多くのことを忘却していた私にとっては、自分を当時の久敬社へ連れ戻すタイムマシンのようでした。「塾日誌」を読んでいると頭の中がタイムスリップして、当時の塾の行事、塾生の生活や考え、世相などが次々とよみがえってきてきました。先ほど、史料的価値はほとんど無いと記しましたが、この日誌からは、当時の久敬社塾生の風俗の一端を知ることができます。この点では、間違いなく「塾日誌」も民俗資料としての価値が十分にあると思っています。
《男たちは何やら騒々しかった》
「塾日誌」は私が4年生だった昭和52年度版から読み始めました。〔日記〕欄にはその日の警備当番の手で思い思いのことが書かれています。読み終えて頭によみがえってきたのは、当時、塾全体に活気!?があり、毎日毎日がかなり賑やかな(騒々しい!?)雰囲気だったことです。今よりもはるかに娯楽が少なく、お金もない当時の塾生は、夜はラジオカセから流れるDJの語りや音楽を自室で聴くか、和室でテレビを観るかでした。島田塾監宅で渋茶を飲みながら時代劇を楽しむグループもいました。和室には常に10名前後が集まり、大相撲・野球などのスポーツ中継やお色気混じりのバラエティ番組を観るのが定番だったと思います。野球はまだ巨人が強力な時代でした。身売り続きのライオンズの復活を地味に祈る少数グループもいましたが、熱狂的なG党とアンチ巨人の2手に分かれての応援で盛り上がっていました。端からみると、ただただ騒々しいとしか言いようがなかったと思います。
《仲間たちと想い出はミックスベジタブル》
当時の塾生には勉学に勤しむ者、自室や談話室で読書や音楽に親しむ者、塾監宅でテレビや雑談を楽しむ者・・・、それぞれの毎日がありました。当然、早朝や深夜までバイトに励む者や当時大流行の麻雀に励む者も少なからずいました。それぞれの生活で得た経験や知識でお互いが刺激し合っていました。
プライバシーを守る感覚には著しく乏しかった塾生ばかりで、時代もまたそうでしたが、4年間を過ごした中で、ひとり暮らしでは得ることのできない多くのことを経験させてもらいました。より広く考え、より多くのことを学ぶ貴重な機会を得たと久敬社には感謝の気持ちが絶えません。今、そう思いながら、「塾日誌」を手にして感慨にひたり、古文書類の解読でひと踏ん張りご恩返ししようと意を決しています。
(山﨑敬史 2022年6月 記)