1971卒塾
70歳 井上 壽夫さん
ヤマキチ屋 代表取締役
3年先輩のK.Uさんと裏山へ入り曳山の製作をはじめる
昭和42年10月中旬、2年先輩の故K.Tさん…唐津神社宮司…に、おくんち(曳山)の絵葉書を見せられて、旅費がなく、唐津に帰れないヤマキチの私は、居ても立っても居られず、米屋町の「酒呑童子と源頼光の兜」を作ろうと〜3年先輩のK.Uさんと裏山へ入り、竹を切り出しに行きました。ここから曳山の製作は始まりました。
祖父が宮大工。従って大工仕事はお手のもので大好きでしたから、図面も引かずに、先ず切り出してきた竹で籠を作り、そこに太い針金を通して大まかな骨格を作り上げました。次に、細い針金を網の目のように這わせたり捻ったりしてヤマの形に整えました。
完成したときは全員で肩をたたき合い喜びを分かち合った
そうして、それからが根気のいる作業でしたが、大量の新聞紙を外側と内側に何枚も貼り重ね、最後に書道用の和紙を丁寧に貼り合わせました。
それからは、絵葉書をお手本に色塗りの作業に入り、長い髪は幾つものモップを墨汁で染め上げて完成させました。授業もさぼりがちに、朝から夜まで玄関先に座り込んで製作に没頭した日々でしたが、徐々に他の塾生たちが手伝ってくれるようになり、完成したときは全員で肩をたたき合い、「やった、やった」「よかった、よかった」と、お互いに握手攻めにして喜びを分かち合いました。一番大変だったのは、久敬社にあった頑丈な自転車で、何度も何度も駅近くの金物店へ針金の買い出しに行ったことです。何往復したでしょうか。ヤマキチの私であっても、とても辛かった記憶があります。
そして、いよいよ試走
そして、いよいよ試走。裏の農家からリヤカー1台を借りて来て、太鼓を乗せて笛吹きも乗って走り出しました。しかし、即パンク!!その状態のまま、グランドを曳き回し、今度はバスケの籠にぶち当たってヤマは上向きに……。散々な出だしでしたが、その後百合ヶ丘駅まで繰り出しました!すると当然ながら警察官がやってきて、「いったい君たちは何をはじめるのか?」と尋問が始まりました。しかし、救世主が現れました。百合ヶ丘商店街の副会長さんでした。その方は、NHKの朝ドラで、おくんちのシーンを見て唐津の曳山をよくご存知でした。他の商店街の方々もご存知だったみたいで、救世主の副会長さんから「百合ヶ丘祭のメインの演物として、ぜひ参加してくださーい!」と。そしてすぐに、50mほどの綱を2本買ってくださいました。
昭和44年(3年時)製作の水主町「鯱」百合ヶ丘祭では、100人を越す大勢の子供たちが集まり、百合ヶ丘の界隈をエンヤエンヤと曳き回しました。駅前のメインストリートは唐津くんちさながらに見物客でいっぱいになっていました。とても気持ちよかった思い出があります。それ以来、私は「久敬社のお兄さん」として、百合ヶ丘では~有名人~になりました。
周囲の人の理解や協力があってこその学生時代
2年目は「刀町」。3年目は、本格的に取り組んで「水主町」の鯱を製作しました。たくさんの手伝いも得て、上下に動き、鯱が空中を泳ぐように作りました。住み込みの賄いのおばさんがリヤカーを買ってくださり、四輪になった曳山は安定感が増しました。
4年目は出身の中町の青獅子を作りました。町を巡行するときは、曳山の上にまたがって電線の処理もするようになりました。
ヤマキチNo.1を自負する私でしたが、たくさんの人たちの応援を得たおかげで、このように故郷から離れた土地でも、唐津くんちを楽しく満喫する
皆さんへ感謝します。
(井上壽夫 2019年11月 記)