9999入塾
59歳 新倉弘子さん
故郷への恩返しとの思いから
共通一次に失敗。父から東京の私立大学を勧められ受験
1983年4月、大学の直ぐ近くの一戸建ての家に間借りで下宿生活を始めました。同じ大学の女子総勢9名が、8畳の和室だったり6畳の洋間だったり、それぞれの部屋に必要な家具を持ち込んでの生活でした。1,2年生の時は、4畳半の和室で1間の押し入れと半間のクローゼット付きの部屋でした。冷蔵庫とこたつと3段ボックス等を持ち込みました。布団や身の回りの生活道具を唐津駅から国鉄のチッキ(最寄り駅までの荷物輸送です)で送りました。初めての自炊も始めました。キッチンは共用だったので、先輩方から調理の仕方を教わったり、でき上った料理を少し分けて頂いたり。おしゃべりも楽しく、様々なことを教わりました。90㎝四方のこたつのテーブルは、食事をしたり勉強をしたり一人暮らしにはとても重要なアイテムでした。
下宿内では当番がありました。お湯を張る風呂当番、門限10時に玄関をロックする鍵当番、風呂やトイレ・廊下・玄関・キッチン等の掃除当番、ゴミ出し当番。電話は10円硬貨を投入するピンク色の電話で、かかってきた電話の取次ぎや貯まった10円硬貨を管理して電話代を支払いに行く電話当番等がありました。そして、9人全員で毎月ミーテングを行い、気づきを話し合って学生らしく住みよい下宿を目指していました。
この点、毎月「塾生大会」と称するミーテングを行い、自治的な運営スタイルをとっている久敬社と似ているかもしれませんね。
故郷への恩返しになるとの想いから
29年続けていた仕事を2015年9月に退職しました。退職後は、高校生まで育ててもらった唐津や現在の生活拠点である多摩市に何かしら恩返しができればと考えていました。そんな矢先、久敬社OBのNさん(当時久敬社の常務理事)から「老朽化している久敬社の建て替えの検討」や「女子受け入れの検討」等をしてもらえないかと話を頂き、2016年6月故郷唐津との関わりの深い久敬社の評議員になりました。
それらの検討を開始してから5年後の2021年4月、久敬社は女子学生の受け入れを開始しました。3階建ての寮の2階・3階部分を女子の居住スペースとし、それぞれの階の入口にオートロックの扉を取り付けました。2階も3階も階段すぐ横にバスルームを設け、ユニットバス・脱衣所・洗面台で構成した浴室を2セット備えました。また、階段横には、洗濯機と乾燥機とトイレを設置しました。
男子学生の居住スペースは、本棟1階部分と別棟になります。1階に個室・トイレ・洗面所、さらに大浴場とシャワールーム・洗濯機があります。別棟は、5つの個室とトイレ・洗面所があり、風呂だけは本棟の大浴場を使用しています。
男女共用エリアには、食堂、和室、卓球台やピアノがある談話室等があります。談話室や玄関ロビー等からは、学生達の楽しそうなお喋り声が聞こえてきます。特に今年は、ピアノの音の調べが心地よく流れています。塾監夫妻から暖かく見守られている中で、勉学に励み、社会性を育み、自分のペースで大人への階段を上っている塾生達がとてもまぶしく感じます。
段ボールの中から歴史を紐解く
久敬社には歴史的文化的価値の有無の区別なく雑多な資料がたくさんあり、2019年7月から少しずつ古い段ボール箱を開けながら資料整理をしています。
長行公の勤務記録としての「御非番 御袖裏下調」、昔の「久敬社日誌」や「塾則」、「財団法人設立届」等が出てきました。これらの資料・史料を今後どういう形で残していくか、活かしていくか等、今後の大きな課題です。
2022年、唐津の歴史文化企画展「小笠原長行生誕200年記念 幕末維新を生き抜く」が唐津城で開催されました。久敬社は企画段階から関わり、「御非番 御袖裏下調(1866年)」、「家範家則 小笠原家(1870年頃)」、「小笠原長行公書 『唐津神社』(1870年頃)」、「久敬社日誌(1891年)」、「五大洲統一人形(1880年頃)」を展示したほか、小笠原長行公と唐津と久敬社の関係をパネルにして展示しました。
まだまだ作業は続きますが、出現した資料・史料をもとに久敬社の年表を作成したいと考えています。
役員達の久敬社を想う気持ち
久敬社の役員は、大半が久敬社のOB(卒塾生)です。役員会等での発言から、久敬社への熱き思いを感じます。過ごした時代も学年も違うけれど、それぞれの楽しい思い出を大切にし、後輩たちにも経験させたいという想いやお世話になった恩返しをしたいという想い、また、久敬社を後世に引き継いでいきたいと思う想いは、皆さん共通しています。
小笠原長行公の篤志により小笠原邸の一室に創設された久敬社は、まもなく150周年を迎えます。歴史の重みと責任を感じます。とても喜ばしいことです。これからさらに発展し200年続く久敬社を目指して、微力ながらもお手伝いさせていただければと思っています。
(2023年7月 記)