新着情報news

久敬社塾 > 新着情報 > 久敬社と小笠原名誉顧問が読売新聞に掲載されました

お知らせ

2021年09月09日

久敬社と小笠原名誉顧問が読売新聞に掲載されました

久敬社と小笠原名誉顧問が読売新聞に掲載されました

全国261の大名藩が廃止されて政府直轄の県になった1871年(明治4年)の廃藩置県から150年を迎え,読売新聞では解藩知県と題して,旧藩の遺風や旧藩主が地域に現在どのように関わっているかについて取材を行い,毎週土曜日に連載しています。
その中で,旧唐津藩小笠原宗家16代当主であり,公益財団法人久敬社の名誉顧問を務めている小笠原一憲が久敬社において取材を受け,9/4付け読売新聞および読売新聞オンラインに記事が掲載されました。冒頭の写真は,半世紀近く前に塾生が制作した唐津くんち一番曳山赤獅子を前に立つ名誉顧問と塾生たちです。
以下に記事を転載しますのでご覧ください。 (C)読売新聞社
————————————————————-

[解藩知県]令和の殿<7>旧唐津藩小笠原家 小笠原一憲さん 74才

思わぬ縁 寮生見守る

新宿から小田急線で30分余り、川崎市麻生区の閑静な住宅街に学生寮・ 久敬社塾(きゅうけいしゃじゅく)はある。ロビーには佐賀県唐津市の秋祭り、唐津くんちの 曳山「 赤獅子 」の複製が飾られていた。

塾は1878年(明治11年)、旧唐津藩小笠原家の 長行(ながみち) が東京の自邸の一室を、唐津出身の若者に開放したのが始まりだ。東京駅を設計した辰野金吾、早大2代学長の天野為之はここから巣立った。
「大学の授業は今どうなっていますか。コロナ禍で本当に大変だね」。
現在も唐津出身者を中心に受け入れており、長行の曽孫、一憲さん(東京都狛江市)は名誉顧問として、14人の寮生を温かく見守る。

小笠原家は、母方が徳川家康につながる譜代大名だ。杵築(大分)、三河吉田(愛知)、岩槻(埼玉)など国替えが続き、唐津6万石を治めたのは廃藩置県までの半世紀だ。一憲さんは「唐津にいた時期はわずかでしたが、それでも長行公は、唐津の若者の力になりたかったのでしょう」と語った。

一憲さんは東京生まれ。父・長英さんは戦前から戦後にかけて小笠原章二郎などの名で映画俳優として活躍した。海軍中将や宮中顧問官を務めた祖父・長生(ながなり)さんは長英さんを勘当していた。昭和天皇の教育にあたり、久敬社塾の運営にも携わった謹厳な祖父からすれば、「映画の道に進んだ息子を許せなかったのかもしれません」。

このため父から家の歴史や家訓を聞くことなく育ち、高校卒業後に都内の不動産会社に就職した。後に狛江市で独立して、小田急沿線の土地開発に携わってきた。「慌ただしい仕事や生活の中で、殿様の子孫だと意識することはありませんでした」

ところが祖父の跡を継いだ叔父が亡くなり、その夫人から後事を託される形で2002年に当主となる。こうして思いがけず久敬社塾との縁が生まれることになった。

ロビーの「赤獅子」は半世紀近く前に寮生たちが作った。オリジナルは小笠原家の唐津入り直後に作られた現存最古の曳山で、唐津くんちのシンボルだ。秋には学生らが寮近くの街中を曳く伝統が続いている。

2017年に初めて本物のくんちを観覧したことで、改めて唐津とのつながりを実感した。曳き子の法被に、曽祖父長行の書を基にした「飛龍」の文字があしらわれていたのだ。長行は第2次長州征討(1866年)の幕府軍の総大将格で、その敗北の責任者ともされる人だが、唐津市では幕府を支えた忠臣として「唐津八偉人」に選んで顕彰していることを知った。驚くとともに胸が熱くなった。

「曽祖父も祖父も軍を指揮しましたが、本当は学問が大好きでした。だから学問を志す若者を支えたのだと思います」と一憲さん。「何も知らないまま当主になりましたが、久敬社塾を次世代につなぐために、できる限りのことをしていきます」

*おがさわら・かずのり  1947年生まれ。東京都狛江市の不動産会社「エスペランスホーム」社長。地元の宅建協会や商工会の役員を歴任した。当主は代々名前に「長」がついており「長則」の号を持つ。

[名君紹介]小笠原長行(1822~91年)幕府老中外交で手腕

唐津小笠原藩の初代長昌の長男。藩主の世子(後継者)という立場のまま幕府の老中に就任し、薩摩藩士が英国人を殺害した生麦事件を解決するなど、外交面で手腕を発揮した。

小笠原長行

小笠原長行

第2次長州征討では老中のまま小倉方面の幕府軍総督も務めたが、将軍徳川家茂病死の報を受けて戦線をいち早く離脱したことが、長州藩勝利につながった。しかし戊辰戦争では旧幕府軍に身を投じて最後まで新政府軍への抵抗を続け,譜代の面目も保った。後に許されて東京で隠せいした。

唐津市教育委員会の黒田裕一学芸員は、「維新と対極の人物とみられがちだが、老中時代に鉄道建設の計画を進めた開明的な人物で、外圧から日本を守った功労者でもあった」と評価している。以上

詳細はこちら

一覧へ戻る