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懐かしい写真だったり、ほやほやの写真だったり。
いつだってこれらは、「久敬社は永遠だぞ!」と語りかけてくれます。
島田塾監との懐かし写真館
和室で横になるのも,自室にこもっているのも良かったけれど, 一番に寛げたのは島田塾監ご夫妻の居間です。 夜になると三々五々と塾生が集まってきて, 奥様が淹れてくださったお茶を飲みながらみんなでTVを観ました。 今でも,ごっつい湯呑茶碗で熱いお茶をすすれば, ふっくら優しい奥様の柔らかな笑顔と愛犬Qちゃんを想い出し, TVに映る水戸黄門様を観れば,存在感の風圧を放ちながらも 孫を見るように愛情たっぷりな眼差しを向けてくれていた塾監を想い出してジンとします。 (塾監在任:?年~1976年)
中山塾監との懐かし写真館
部屋でくすぶる僕たちをグラウンドに引っ張り出し, くたくたになるまで一緒になって ラグビーボールを追いかけてくれた中山塾監。 終わったあとは決まって芝生に寝ころがり, 大きな空を見上げながら大好きな山の話を熱く語ってくれました。 そんな様子を,土手の上から眩しそうに見つめている奥様とお子さんたち。 大兄貴分のような中山塾監と, 塾監ファミリーの温かな暮らしがそばにあったから, ちょっと乾いた男だらけの久敬社にも ほんのりと明るい灯をともしてくれていました。 (塾監在任:1977年~2010年)
70年代後半の塾旅行,塾祭,合ハイ・合コン,千代ケ丘祭
高度成長下の日本経済がニクソンショックと第一次オイルショックを経て,低成長・安定成長時代へと移行した70年代後半,久敬社では,島田塾監が逝去され,中山塾監がご家族で着任されました。 桜の便りと共に新入塾生が入ってくると,すぐに上級生の導きで合ハイや合コンが催され,悲喜交々の後日談でしばらくの間,塾内は話が尽きませんでした。その後も塾旅行,塾祭,千代ケ丘祭・・・と続いて,経済は低迷していましたが塾生の体温はどんどんヒートアップしていきました。 (※OB諸氏からの写真等素材の提供をお待ちしています)
70年代後半の春闘ソフトボール大会,駅伝大会
1975年,プロテニスでは,ウインブルドン女子複で沢松和子がアン清村と組んで日本人女子初優勝。プロ野球でも広島東洋カープが悲願のリーグ初優勝を遂げ,1978年には東京ヤクルトスワローズがこれに続きました。 大相撲では北玉時代から輪湖時代へと移り変わり,70年代後半のスポーツ界には新風が吹き荒れました。 久敬社のグラウンドでは,週末の朝早くからテニスやソフトボールに興じる歓声・奇声・怒声が響き渡り,室内組は卓球で盛り上がっていました。風薫る5月には恒例の春闘ソフトボール大会。木枯らしの季節になると,アップダウンの多い千代ケ丘界隈を駆け回ってリレーする駅伝大会で,塾生たちは大いに気勢を上げました。 <※OB諸氏からの写真等素材の提供をお待ちしています>
加登塾監との懐かし写真館
塾監に着任したのは2010年。 この年,小惑星探査機「はやぶさ」が7年におよぶ宇宙の旅を終えて帰還しました。数々のトラブルを奇跡的に乗り越え、最後は大気圏に突入して燃え尽きた姿は人々の感動を呼びました。 あれからちょうど10年が経ち2020年,塾生数の減少という向かい風にさいなまれましたが、奥様と一緒に奮闘努力し、少ない人数であっても、久敬社の塾風や規律の保持に力を尽くし、傑出した職人的フットワークで塾舎や外部スペースの手入れなど力を発揮されました。 そうして、OBや塾生たちに惜しまれながら,塾監という激務を立派に務め上げ,次の人生へ。 お空のうえでは,はやぶさ2が全ミッションを完了してもうすぐ帰還予定です。加登塾監にとっても宇宙探査計画にとっても、また新たな旅が始まります。 (塾監在任:2010年~2020年) (※OB諸氏からの写真等素材の提供をお待ちしています)
古文書の整理風景~150年分の歴史を紐解くために
久敬社創設から今年(2021年)で143年。役員と有志数名が寸刻を惜しんで整理作業に励んでいる。 今はもっぱら書庫やダンボール箱から取り出し,内容を確認しながらタグ付けをして,長期保存に有効な中性紙の袋へ一つずつ収納している段階だ。 次の段階では,ジャンル別や時系列等にグルーピングをして総目録を編纂し,並行して解読を進めるロードマップを描いている。 何れにしても将来的には,保管や保存に留まらず,遍く一般に公開し,研究に供することを目指したい。 その先に久敬社が,近代史や郷土史研究,公開講座等の一拠点となっていければ素晴らしい。 作業は緒についたばかり,これからだ。
60年代の Go! Go! 若大将
池田内閣が国民所得倍増計画を唱え、国民の暮らしに大きな変化が現れたのが1960年代。東京五輪開催を契機に、東海道新幹線開通をはじめ都市化を見据えたインフラの整備が進んだ。一方、若者のパワーが爆発した時代でもあり、第二次反安保闘争や大学紛争は首都圏から全国へ波及した。 老朽化が進んだ久敬社塾舎は、1966年に現在地の千代ヶ丘へ移転・新築。この年、日本の総人口が1億人を突破、ザ・ビートルズの初来日は若者を熱狂の渦に巻き込み、VANルックに代表されるアイビー・スタイルが大学生の間に流行した。当時の塾生も、ショートの髪を七三に分けたスタイルが多い。塾祭での女子大生とのフォークダンス・記念撮影、塾旅行、同郷人懇親会、入塾式・卒塾式…の写真の数々。この時代に大ヒットした学園青春映画“若大将シリーズ”を見るようで、どの顔も眩しくて精悍だ。 入塾式や同郷人懇親会では、岸田100/101代内閣総理大臣の母方祖父で、唐津出身の井口良二久敬社理事長の顔も見える。 1969年にはアポロ11号が人類初の月面着陸。首都圏で大雪が降り、島田塾監が見守る中、塾生総出で除雪に当たった。
僕らは世界にひとつだけの花ー2000年代
2000年代は、アナログとデジタル、ローカルとグローバル、個人と世界、安全とコストなど、今日的な課題が顕在化しだした時代であった。 Y2K問題が杞憂に終わり、IT革命が新語・流行語大賞に選ばれたように、2000年代に入るとインターネットや SNS の急速な普及、スマホの誕生などデジタル化が一段と加速した。 また、1990 年代のバブル崩壊から長い経済停滞に陥っていた日本だったが、2002年の日韓共催FIFA ワールドカップを始め、国際舞台での日本人選手の活躍は目覚ましく、全国津々浦々まで明るいニュースが届いた。期待も新たに福岡ソフトバンクホークスが誕生。塾生も熱い声援を送った。2005年にはクール・ビズ、「もったいない」が推奨されるなど、今に続く地球規模の環境問題対応が実行ベースに入った。 ネットのある生活環境の中で育ってきたこの頃の若者をデジタルネイティブ世代と呼ぶが、ゆとり世代にも該当する。ゆとり教育には是々非々の議論があったが、目的は「多種多様な経験をする”ゆとり”を重んじて、人間性を豊かにする」ということだった。塾生たちの表情は伸びやかで大らか。多様性に富む豊かな時代づくりの担い手としての期待感に満ちている。
曳山LOVE ヒストリーズ
小石川伝通院に隣接する場所に塾舎があった(伝通院時代)の昭和5年の写真には、立派な鯛が鎮座。焼け野原の中にかろうじて塾舎が残った(西大久保時代)昭和23年久敬社神祭の写真の曳山は、鯛?それとも飛龍でしょうか?以降、確認できているだけで、昭和42年に酒吞童子と源頼光の兜、43年赤獅子、44年鯱、45年青獅子、49年?に飛龍、53年に今に残る赤獅子(夭逝した現役塾生の冥福を祈るために、彼の出身町である中町の青獅子へ1年だけ姿を変えた)が製作された。令和4年の大晦日には、何と第73回NHK紅白歌合戦に堂々出演。代々の先輩諸兄がこのような素晴らしい曳山を製作され、現役塾生が修復を重ね、襷をつないできたことに敬服の念は堪えない。 9月になると、曳山の点検・囃子の稽古など、千代ヶ丘祭と同郷人懇親会の準備に、塾生は総力戦となる。忙しいが、塾生同士の絆を育み、地域のコミュニティに一役も二役も買うことになる。「久敬社と曳山は地域の宝」だと自治会の方は語り、「一番想い出に残る行事だった」と語る塾生もいる。 閑静な街千代ヶ丘が9月・10月は秋一色、とても賑やかになる時である。
都塵の表紙:創刊号から第107号まで
昭和32年6月、『都塵』創刊。以下に、創刊号から第107号(令和5年5月発行)までの全表紙を並べました。記憶にある表紙、懐かしい表紙はどれだけありますか。 <都塵創刊号 都塵誕生に際して…塾監:島田英治> (一部抜粋)今回の『都塵』の計画は有意義であると思う。大分難産であったようであるが、線香花火式に終わらないで立派な生長と美しい花を咲かせることを希望してやまない。 <都塵第106号 都塵発刊に際して…塾監:山崎信也> (一部抜粋)『都塵』発刊に向け塾生大会で編集委員を募集したところ、多くの塾生の希望があり、第1回の編集会議では、たくさんのアイデアが飛び交い、女子・男子学生の総意が生かされ、これまでとはひと味違った『都塵』が発刊されるのではないかと期待が膨らみました。島田塾監の随想にある線香花火で言うならば、大輪の華ではなくとも、塾生一人ひとりの一瞬一瞬に放たれる眩しい閃光の華を咲かせてくれることを期待しています。